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社会科散策(政治)論述№19-冷戦~終結後,軍縮の歩み [政治]

5-3 国際政治③-冷戦,多極化,第三世界,軍縮

⑴二つの世界(冷戦体制)
①西側陣営(資本主義陣営)
 戦後,アメリカは西欧諸国への大規模な復興援助計画(マーシャルプラン)を実施するとともに,1949年,西欧諸国およびカナダとの間に,北大西洋条約機構(NATO)を結成して共産圏の封じ込めをはかった。
②東側陣営(社会主義陣営)
 ソ連は,経済相互援助会議(COMECON)を設立し,1955年にはワルシャワ条約機構を東欧諸国との間で結成した。
※鉄のカーテン
 英首相チャーチルは,1946年の訪米中の演説で「北はバルト海(シュテッティン)から,南はアドリア海(トリエステ)に至るまで鉄のカーテンがおろされている」とソ連の厳しい封鎖線を皮肉った。
 
 東西陣営が対立する冷戦下で,❶東西ドイツ,❷南北朝鮮,❸南北ベトナムといった分断国家が生まれ,また,冷戦終結まで米ソ対立を反映した❹代理紛争が展開された。

❶戦後ドイツは,西側(米英仏の共同管理)と東側(ソ連)に分断された。ベルリンも東西に分断され,西ベルリンにはソ連によりベルリンの壁(1961~89)が構築された。東西ドイツの統一は1990年。
❷1945年,北緯38度線を暫定的境界として南を米軍が北をソ連軍が占領した。そして1948年,南に大韓民国(初代大統領李承晩)北に朝鮮民主主義人民共和国(初代首相金日成)が成立した。
❸1945年9月にベトナム民主共和国(初代大統領ホー・チ・ミン)が成立。第1次インドシナ戦争後ジュネーヴ休戦協定が結ばれ(1954),北緯17度線が暫定境界線とし,56年7月に南北ベトナム統一選挙を実施することが定められた。しかし,1955年10月アメリカの支援を受けたベトナム共和国が成立し,ベトナムは南北に分断した。
❹朝鮮戦争(1950~53),ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争1965~73),ソ連のアフガン侵攻(1979)など。

⑵緊張緩和(雪解け)
 1955年,❶米・ソ・英・仏の4巨頭によるジュネーブ会談が開かれ,国際政治は❷緊張緩和(雪解け)に向かった。

❶具体的成果は得られなかったが話し合いの機運が高まった。
❷緊張緩和(デタント)
 米ソ間の核兵器による恐怖の均衡が成立したこと,また,非同盟諸国を中心に,平和共存を求める声が強まったこと,さらに,1953年のスターリンの死後,ソ連で平和共存を重視する政策の転換が行なわれたことがその要因としてあげられる。
 1962年にキューバ危機がおこり,米ソの対立は最高潮に達したが,これを教訓に米ソ間にホットラインがしかれるなど,対決を回避する空気が強まった。そして,翌年には,米・英・ソ間に部分的核実験禁止条約が締結されるに至った。

⑶二極化から多極化へ
 緊張緩和とともに両陣営の結束がしだいにゆるみ,独自の立場をとる国が現れてきた。社会主義陣営では,1950年代半ば中ソ論争(社会主義の路線対立)が展開され,1960年代末に中ソ国境紛争にまで発展した。また,東欧諸国においても,ソ連からの自立をめざす動きが現れてきた(ハンガリー事件1956年,チェコ事件1968年)。
 資本主義陣営では,フランスが1960年に核兵器を所有し1964年には中国と国交を樹立するなど独自の外交を展開した(1966年にはNATO脱退)。また,西欧諸国や日本は経済成長を遂げて国際競争力を強めていった。

〔研究〕(中ソ対立)

 中ソ対立の原因と米中接近の経過について説明せよ。

〔解答〕 1956年2月にソ連がスターリン批判を展開したこと,及びアメリカとの平和共存路線をとったことに対して,中国はソ連を修正主義と非難した。1969年には中ソ国境で武力衝突がおこるなど対立がエスカレートしたことから,毛沢東は危機回避のためアメリカに接近した。ベトナム戦争の打開を模索していたアメリカもこれに応じ,中国との関係改善に乗り出した。1972年,ニクソン大統領が訪中し米中首脳会談が実現した。


⑷第三世界
 アジア・アフリカの新興諸国は,発言力を強めるために,「第三世界」として結束し,東西いずれの陣営にも属さない立場(非同盟主義)を表明した。1955年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)では,植民地主義反対,民族自決主義,平和共存などの平和十原則が採択された。
 また,これらの新興国は経済的にもその自立を図ろうと,国連貿易開発会議(UNCTAD)や国連総会を舞台に南北問題の解決にあたってきた。しかし,近年では開発途上国間でも,資源を持つ国と持たざる国,工業化に成功した国と経済が停滞する国とで格差が広がったり,開発途上国間での対立も問題(南南問題)となっており,開発途上国同士の結束はむずかしくなっている。

⑸冷戦終結とその後
 1985年に成立したソ連のゴルバチョフ政権は,ペレストロイカといわれる改革政策を進めるとともに,いろいろな立場に柔軟に対応する「新思考外交」を展開した。このソ連の変化を背景に,東欧諸国では政治的民主化を求める運動が急速に広まり,共産党による一党独裁体制が次々に倒されていった。そしてついに,1989年末,地中海のマルタでの米ソ首脳会談で冷戦終結宣言がなされた。
 冷戦終結後,ヨーロッパでは,1990年10月東西ドイツが統一された。また,1991年末にはソ連が消滅し新たに独立国家共同体が成立した。アジアでは,1990年にソ連と韓国の国交が樹立され,1991年には韓国と北朝鮮の国連同時加盟が実現した。また,1992年には中国と韓国の国交が樹立された。
 一方,冷戦終結とともに,民族対立や宗教対立が噴出し,地域紛争が各地で展開されるようになった(ユーゴ紛争,チェチェン紛争,アフリカのルワンダやスーダンの内戦など)。また,最近ではイスラム原理主義勢力(IS)によるテロとの戦いが先鋭化している。

〔研究〕冷戦後の地域紛争 類題(お茶女附属平成29年度)
 冷戦終結が地域紛争に与えた影響について説明せよ。
(解答)ソ連崩壊によりソ連からの独立の動きや抑圧されていた民族間の対立が表面化し,また両大国からの軍事・経済支援の撤退により内部の主導権争いや利権対立が先鋭化した。
(解説)
 この問題を解答するためには,具体的な地域紛争を念頭におく必要があるとともにその原因を理解しておく必要がある。超難問である。具体的な地域紛争としては,チェチェン紛争(ロシアからの独立=ソ連への怨念),ユーゴ紛争(チトー後のさらなる民族対立の激化),アフリカ内戦(利権争い),ソ連のアフガン侵攻⇒ソ連軍の撤退⇒タリバン政権⇒ISの成立などを念頭におけばよい。

⑹軍縮へのあゆみ
①1963年,部分的核実験禁止条約(PTBT)を米・英・ソ間で締結。
②1968年,新たに核兵器保有国の出現を阻止する核拡散防止条約(NPT))が国連総会で採択され1970年に発効。
③1987年,中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)が米ソ間で調印され翌年発効。
④1991年,戦略兵器削減条約(STARTⅠ)が米ロ間で調印された(但し,93年に米ソ間で調印したSTARTⅡは未発効)。
⑤1996年,地下実験を含むすべての核爆発実験を禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)が国連総会で採択された(未発効)。
⑥1997年,対人地雷全面禁止条約(オタワ条約)が締結され’99年に発効。
⑦2010年,米ロ間で新STARTが調印された(’11年発効)。
 しかし,1998年にはNPTに加盟していないインドとパキスタンが核実験を行い,2003年にNPTを脱退表明した北朝鮮が2006年に核実験を行うなど,核拡散が完全に防止されているとは言いがたい状況である。  

〔研究〕核兵器保有国 類題広島大附属高校2017
 核拡散防止条約(NPT)を締約せず核兵器を保有している国を3つ答えよ。
(解答)インド,パキスタン,イスラエル
(解説)北朝鮮も核兵器を保有していると推測される。また,2003年にNPT脱退表明をしている。ただ,この脱退表明は北朝鮮の一方的表明であり,国際的にその脱退が承認されているわけではない。したがって,北朝鮮を解答にあげるのは妥当でない。


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